
日本は、現状に対する認識が非常に曖昧で、現実を徹底して突き詰めようという執念に乏しい。しばしば願望や希望を織り交ぜながら、何となくぼんやりしたものに寄りかかって問題を考えたり議論をしたりしている。その結果、無意識に使われている『失われた○○年』という言い回しにも、暗に『元に戻る』というニュアンスが含まれている。『あの頃は良かった』モードで昔の未来を繰り返し、逆回転しているような感じからなかなか脱することができない。
根拠がなく、なんとなく「日本は例外だ」と逃げ込んでいてはだめだ。現実は常に動いており、日本は他国よりはるかに速いスピードで、急速な人口減少や高齢化という大きな変動を体験している。しかも今、我々が臨んでいるのは前例のない事態で、他所からモデルを持ってきて「ここではこうなっています」では済まない問題も多い。暗い話に皆うんざりだというのはわからなくもないが、やはり人間の認識というのは現実にぶつかる都度、鍛えなければいけない。これからの時代を担う若者も勉強する必要があるが、上の世代の人たちも、若い人たちが直面している現実にもう少し寄り添ってものを考えていかなければ、話が空回りするだけだろう。日本アカデメイアの一つの役割はこういうところにある。
大局観が欠落し、根っこの方から鍛えなければいけないという兆候は、政治の世界にも顕著に表れている。目先のことや、ああすれば良くなる、こうすれば良くなるという、やたらと景気の良い話が繰り返され、あるいは、国民に夢を語るのが政策だ、という感覚が抜けない。

厳しい現実を共通認識として持った上で、しかしなお、敢えて少し動かしてみよう、こういう可能性は追求してみよう、これがボトムでやりようによってはそんなこともできるかもしれないと競争することがこれからの政治に求められるはずだ。見たくないものを直視する精神的強さがないと、結局ズルズルと目算もなく、無駄で非効率な手を打つことになる。
また、今日的課題を解決するためには、政治と経済がより密接に連携を深めることが欠かせない。しかし、政権の現実認識というものが、たとえば経済界とどの程度共通性があるのか。お互い徹底的に議論を詰める、あるいは議論を詰めた上で協力しようという段階にまで、この国はまだ至っていない。やはり政治家が、もう少しそういう現実認識に対してエネルギーを使うべきだろう。